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私の政策と提言 「中川義雄と北方圏構想」


はじめに
北方圏構想事始め
グローバルに考えると
なぜか北嫌いの中国・日本
なぜ「北」が繁栄したか−北賛歌
「北」を基本とした発想の転換を
「北方圏構想」を提唱




はじめに

 昭和三十年代に始まる高度成長政策によって、一次産業、石炭産業、重厚長大工業にシフトしていた北海道は急速に進む産業・経済のソフト化への対応に立ち遅れが目立ってきました。
 こうした中で、北辺の地とされてきた北海道の将来をどう考えたらいいのか、真剣に考え、多くの先輩や友人知人と北海道に関しての議論を重ねました。
 地球儀を前にして、明日の北海道の展望を模索する中で、北海道が北辺だという見解に疑問を感じました。自分の故郷北海道が北のはずれと決め付けず、むしろ、北海道を中心として、世界、日本をどう位置づけるかという主体性が必要と思いました。



北方圏構想事始め
 地球儀や世界地図を眺めていると、北緯四十三度の北海道は決して北のはずれではありません。黒潮と親潮が交流する海は優れた漁場を形成するように北海道は北の生活文化と南の生活文化の接点であり、世界の生活文化の交流点にあると考えました。
 にも拘わらず、温暖な気候に恵まれた本州、四国、九州に定住して暮らしてきた日本人は、北は鬼門として、北について或る種の偏見を持って、頑固に北を拒否続けてきたように思います。それが何に起因しているのか不思議ですが、「北枕」、「北に神棚、仏壇など大切な物を向けてはならない」、「肉体を表す肉月の上に北を載せると背中の背になる」等々「北」を忌むような発想は、南を志向する中国の文化に大きく影響されてきたのでしょうか。
 今でも、「北海道に流される」、「冷房手当はないが、寒冷地手当がある」とか、北海道を捩って「厄介道」と言った差別的とも受け止められる言葉すら耳にします。情報化、高速化の進展が著しくグローバル化、ボーダーレス化が進む中で、今も尚、日本人の心の奥に「北」への謂われなき偏見を残していてはなりません。特に、私達北海道に住む者自らが、「北」に対するこの様な偏見や自虐を克服しなければならないと痛感しました。



グローバルに考えると
 1970年代の地球儀を眺めてみると、先進国の殆どは北緯四十何度以上に位置していました。これに対して後進国はそれより南に位置しています。ヨーロッパだけを見ても、南欧と北欧を比較すると、所得、福祉何れの水準も、北欧ほど高く、しかも安全で豊な素晴らしい社会環境を実現していました。
 欧州史から学ぶと私はヨーロッパの歴史が「北」への挑戦の歴史と言えるのではないかと考えました。気の遠くなるような苦難に打ち勝って、ゲルマンやアングロサクソンは、アルプスを乗り越え、北極海を制覇して北極圏に渡り、世界の憧れの的になっているスエーデン、デンマーク、ノルウエー等北欧諸国を建国し、スラブ民族は、一万キロに及ぶシベリアの凍土を踏破して、遂にアラスカに達した足跡は優れた教材となります。



なぜか北嫌いの中国・日本
 これに対し、中国や日本の「北」に対するスタンスは、必ずしもこの様には成っていません。この違いは、ヨーロッパ人とアジア人、特に中国人や日本人との「北」に対する歴史的な認識の相違に起因しているのではないでしょうか。
漢字の背中、「背」の字に象徴されるように、中国人や日本人にとって「北」は、正に背を向ける所であったようです。
 今や、「世界遺産」にも成っている「万里の長城」も「一関」、「二の関」と言った地名が残っている我が国の「北の関所」も中国人や日本人の「北」への嫌悪、断絶の決意の証拠と思います。そうして、中国人は、陸と海とのシルクロード等を経由して、灼熱の大地や大海原を遥かに越えて、遂にはアフリカまで到達したといいます。
 面白い事に、有史以来人類は、ユーラシア大陸を舞台に、壮絶なドラマを繰り返し、時計方向に大陸を一巡したことになります。即ち、ヨーロッパ人は、「南」のサハラ砂漠を背にして、北東に進路を取り、今や中国や日本の国境を脅かすに至るのですが、一方中国人は、この間「北」隣のモンゴルを背にして、一貫して南西に進路を取り、アフリカに渡ったという認識に私は立ったのです。
 五千年前の中国文明とギリシャやローマなどのヨーロッパ文明と比較してどちらが進んでいたか分かりません。しかし、ヨーロッパが近世から近代へ、そして現代では世界の文明・文化の中心となっており、今、その格差が歴然としています。何がこのような状況を創りだしたか、それを解く鍵一つは、「北」に対するヨーロッパ人とアジア人との認識の差、スタンスの違いにあったと私は思います。



なぜ「北」が繁栄したか−北賛歌
 人類の進化、発展、繁栄にとって「北」の果たした役割は大きいと、私はそれを高く評価するべきだと思います。その最大の理由は、北へ行けば行くほど自然環境が厳しいから、こうした厳しい環境条件にチャレンジして克服する努力営々として追求してきた点にあります。
その第一は、「北」の自然環境は過酷であり、それに適応して生きていく為には、工夫、知恵など頭を使う必要があり、それが、科学技術の発展の基になったのです。確かに、生きていくために衣食住が重要な事は誰もが認めるところでしょう。住居の問題、家を建てることだけとっても、「北」は「南」より雪や寒さから身を守るために数段上の工夫や知恵が必要です。
 この様な厳しい自然環境の中で生き抜いた長い長い人間の歴史が合理的な思考を重ね、優れた科学・技術を育み、機械や動力を考案して、蒸気機関、ダイナマイトなどの発明につながり、急速に科学技術を発展させ、産業革命を成し遂げて、今日の近代工業文明による繁栄を齎したと言えます。
 第二は、厳しい「北」の環境で生き抜く為には一人では困難ですから、そこに住む人々がお互いに協力し合う事が必要不可欠です。自ずと社会性が発展し、その長い積み重ねが、欧米における現代の民主的な法治国家の基に成ったのです。それに対して、「南」の国では、温暖で豊かな自然に恵まれているから生きていくことはそれほど努力しなくても過ごせる訳です。ただ、自然災害や猛獣や外敵から身を守ることでは、強い指導力の下に人々が集まる社会を築くことに結びついて、ややもすると独裁的な国が多くなる要因の一つとなったと思われてなりません。何れにしても、こうした環境条件の違いが社会の仕組みの相違となって影響しているのではないでしょうか。
 第三は、寒冷な「北」の国では常に体を動かしていなければ凍えてしまいます。生きていくためには、常に体を動かして、働かなければなりません。そこから労働に対する正しい評価が生まれ、それが勤勉な国民性の醸成に繋がったという事が出来ます。それに対して、「南」の国では、体を動かせば動かすほど、暑苦しく耐え難い肉体的苦痛となり、それが北とは異なった生活文化や国民性を育む原因と考えることも出来ます。
第四は、「北」には四季折々の鮮明な季節感があります。とくに、単調で寒くて暗い「冬」を生き抜く為に、せめて心に灯火を灯して春を待つ、こんな環境から、チャイコフスキー、シベリウス、グリーク等「北欧の音楽」、ドストフィスキー、トルストイ、アンデルセン等「北欧の文学」や「北欧の家具」等々素晴らしい芸術文化・生活文化が育まれたのだと考えます。



「北」を基本とした発想の転換を
 「北」に生きる利点は大きいにも拘わらず我々日本人が抱いている「北」に対するマイナスのイメージは、今日でもあまり変わっていません。
 有史以来実に長い年月、本州では数えきれないほど多くの飢饉に遭遇し、「娘を売る」「姥捨て山」等々悲しく悲惨な物語が数多く伝えられているにも拘わらず、指呼の間にある北海道に渡り、本格的な蝦夷地開拓を目指そうとはしませんでした。しかし、鎖国から開国へ、外圧と内圧に動かされて、明治新政府が成立し、漸く重い重い腰を上げて日本人が、漸く北海道に本格的な開墾の鍬を降ろすこととなったのです。
 ケプロンやクラークなど欧米の先人達の知恵と経験を素直に受け入れた開拓使時代は、都市計画に基づく札幌市の開発、札幌農学校の開校、函館の開港、ビール工場(サッポロビール)の建設、石炭開発を推進する為の鉄道の敷設と小樽や室蘭の港湾建設、製鉄所(新日鉄)や製鋼所(日本製鋼所)の建設等々ダイナミックに開発が進みました。しかし、内務官僚が支配する新政府の下で始まった、拓殖計画時代つまり北海道庁時代に入ると北海道開拓も内国植民地としての認識を出なかったため中央政府の主導で手厚い保護のもと北海道の本州化政策が始まり、さらに、第二次拓殖計画の時期になると、海外植民地への進出によって北海道は取り残されて行きました。
 戦後海外植民地を喪失して多くの引揚者、復員軍人が帰国し、廃墟と極度の食糧難の時代に北海道は唯一の希望の地として北海道開発に取りこむことになりました。食料増産、石炭増産、鉄鋼増産、肥料増産等など戦後復興期の北海道経済の発展は目覚しいものがありました。しかし、高度経済成長に進展とともに活力が低下してきました。
 北海道は、北欧や北米などの「北方圏諸国」と同じ緯度、あい似た自然環境にあり、気象条件も似ています。しかし、これまでは北方圏と北海道との交流が、東京経由でそのフィルターを通して行われる事が多く、北海道の良さ、北方圏の良さがお互い直接伝わる事が少なかったように思われます。



「北方圏構想」を提唱
 当時は、東西冷戦時代の最中でしたし、同時にその頃、途上国は政治的な独立を果たして、経済的な自立を目指す先進国との経済格差が「南北問題」として大きな国際問題になり、よく新聞紙上などを賑わせていました。
第三期北海道総合開発計画の策定作業に入った昭和四十年代に国際化が今後日本や北海道を考えるキーワードの一つになってきましたので、国際化時代に我が国に於ける北海道の役割、位置づけをどうするか考える必要がありました。
北海道は東西南北の交差点で、この二つの軸の中心にあるとすれば、日本にとっても、世界にとっても最も重要な地点に位置しているといえます。
 北海道庁の職員だった私は企画部に異動となったのを契機に「北方圏構想」を提案しました。「北方圏」という概念や名称は創作しましたものですから、当時、北方圏とは何だ、北極圏や北方領土という言葉はあるが、どう違うのか等と様々な批判もありました。しかし、昭和44年、第三期北海道総合開発計画を策定作業中に提案して、三期計画に基本構想として採り上げられ、国際化時代に際して北海道の特性を生かす重要な施策として注目されるようになりました。
「北方圏構想」とは、北海道の地理的条件や気象的条件を生かし、北海道と「北方圏」とが直接交流を深める事によって、「北」の良さを真に理解し、自信と誇りと歓びを持ってこの「北」の大地に生きる、このことが北海道の発展に繋がり、延いては、古くから日本人の抱いてきた「北」への偏見を払拭して、広く世界へ向けて、日本の発展に寄与する為の構想を企図したものであります。
 私がこの「北方圏構想」を提案した昭和四十五年頃、シベリアの豊富な資源に着目して、日ソ双方に日ソ経済委員会が設立され、その資源開発協力について、交渉を重ねていましたが、シベリアの森林開発協力に関して合意が成立すると言う大ニュースが飛び込んできました。それは小松製作所が開発機材を提供し、開発された木材を日本が輸入し、その代金で開発機材を決済するということが合意の主旨でした。
 この交渉過程で、ソ連側が一番懸念した事の一つに「温暖な地域の需要に応えてきた小松の技術が、果たして過酷なシベリアに通ずるか」という点があり、そのため、本格的な輸入の前に耐寒試験を実施する事になりました。
 その結果はソ連側が吃驚ほどの成果を収めたのですが、その際、小松製作所の担当者が私に「北海道の開発に小松の機材をたくさん使ってくれたお陰です」「北海道の厳しい気候風土に備えて、従来から、十勝の陸別町で農家の軒先を借りて毎年耐寒試験を繰り返した結果です」と語った言葉が忘れられません。
 北海道の気温の変化は、厳寒時には−35度、真夏には+35度を記録し、その温度差は実に70度に及びます。殆どの人類がこの温度差の中で生活している訳ですが、地球上でもこの様な気象条件を有している地域は珍しいのです。
この事実は「北海道で開発された科学技術は人が生活している所であれば、世界の何処でも通用する」という事を立証したのです。

 北海道は、北方圏の要衝と言う「地理的条件」、全ての世界に通じる「気象条件」とを合わせ有しています。その意味と機能を生かす私の「北方圏構想」に懸ける夢は大きく、あらゆる場面に尽きることなく推進して行きたいと考えています。まさに「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」というJ.ネイスビッツの言葉は私の政策理念の基本であり、北方圏構想はその具現化であります。